とりあえず国宝報告
しばらくここに関われない内に、国宝制覇についてはまた微速前進ながら進んできた。
この夏からに限定しても、東京国立博物館の特別展で伊勢神宮の「玉篇」を拝観し、京都国立博物館で
知恩院の菩薩処胎経と高山寺の冥報記(いずれもそれぞれの寺の未見最後の一点)、大阪獅子窟寺の
仏さま、秋田水神社の鏡像、そしてこの土曜に兵庫県姫路周辺の国宝4点(一乗寺、浄土寺、朝光寺)。
10点にも満たないとは言え、もう未見の作品を捜す方が難しいのでなかなか行けた方だ。
最近きちんとチェックできない状況が続いているので詳細は不明ながら、既に1,000点を超えている
ことはほぼ間違いがない。現状指定総数が1,100点には達していないので、残り100点は切っている
筈なのだ。
ちなみに、水神社の鏡像は8月17日、という一番旅行したくない時期に一日だけ公開のため予定を組む気にもなれなかった。しかも今は同じ大仙市では直後に大曲の花火競技大会もあるのでそっちの方が魅力度が高いし。
そんなわけで、この秋の東北歴史博物館による特別展は何とも有り難いものであった。ただ、展示期間を
問い合わせる電話で「みずじんじゃ」の鏡像、と問うてしまい博物館の方から「すいじんしゃ」と訂正されて
えらく恥ずかしい思いをした。そりゃそうだ。普通に考えれば水神様なんだからそう読むべきだよな。
でもなぜかずっと以前からこの神社のことを「みずじんじゃ」と信じ込んでしまっていたのだ。
この夏からに限定しても、東京国立博物館の特別展で伊勢神宮の「玉篇」を拝観し、京都国立博物館で
知恩院の菩薩処胎経と高山寺の冥報記(いずれもそれぞれの寺の未見最後の一点)、大阪獅子窟寺の
仏さま、秋田水神社の鏡像、そしてこの土曜に兵庫県姫路周辺の国宝4点(一乗寺、浄土寺、朝光寺)。
10点にも満たないとは言え、もう未見の作品を捜す方が難しいのでなかなか行けた方だ。
最近きちんとチェックできない状況が続いているので詳細は不明ながら、既に1,000点を超えている
ことはほぼ間違いがない。現状指定総数が1,100点には達していないので、残り100点は切っている
筈なのだ。
ちなみに、水神社の鏡像は8月17日、という一番旅行したくない時期に一日だけ公開のため予定を組む気にもなれなかった。しかも今は同じ大仙市では直後に大曲の花火競技大会もあるのでそっちの方が魅力度が高いし。
そんなわけで、この秋の東北歴史博物館による特別展は何とも有り難いものであった。ただ、展示期間を
問い合わせる電話で「みずじんじゃ」の鏡像、と問うてしまい博物館の方から「すいじんしゃ」と訂正されて
えらく恥ずかしい思いをした。そりゃそうだ。普通に考えれば水神様なんだからそう読むべきだよな。
でもなぜかずっと以前からこの神社のことを「みずじんじゃ」と信じ込んでしまっていたのだ。
恐怖箱 女郎花
大分迷ったのだけれど、新作が多いということだったので、結局購入。
想像していたよりは楽しめた。
自分では全く対照していないけれど、講評のランキングとは全く違う基準で選ばれたらしい怪談は
「超−1」で接していた(と思っていた)平均レベルよりもずっと良質で正直「読むに耐える」。あの時には
また読んでみたい作品など皆無、と言ってよいほど光るものは感じなかったのだけれど。
とは言え、確認してみると今回書き下ろされた作品が特に優れている、というものでもない。
むしろ新鮮味には欠ける小品が多い。
今更比較して読み直す気など無いのだけれど、書き改められているところが多いのだろうか。それとも
こちらの目が節穴だったのか。
読んでからもう時間が経ってしまったので、個別作品に鮮明な記憶はない。一応ざっと読み返しつつ
感想をば手短に。
冒頭の「満月」がもうじわじわと嫌な話で力作だ。こんな作品、あったかしら。
「思い出してはいけない」も「超」怖らしいタイプの気味悪い作品。結構いけるじゃないの。
書き下ろしの「撮影者」。ブレアウィッチプロジェクトごっこが原作を超えた(観ていないので推測)
不条理な展開へと繋がっていく。怪異と呼べる部分に集中した技法は、長い作品を嫌う人も多いようだし
決して悪いものではないのだけれど個人的には最後にどう失踪したのか、その辺りまで知りたかった。
鏡に纏わる怪談、というのはかなりの主要派閥であることは間違いないけれど、「鏡」はそうした中に
あってかなり異彩を放っている。あまりの不条理さが心霊ものよりも恐怖を感じさせる。こうした自分好みの
作品が比較的多いことも評価を上げた一因かも。
「出席番号十一番」は事実関係が何だかしっくりこない。小学校一年時点では神崎くんの友人が住んでいた。
小学校5年の現時点では沢渡くんの家。その間に沢渡くんの親御さんがこの家を購入した。一応矛盾は
ないのだけれど、では沢渡くんはなぜその住んだこともない家の近くの学校に登録されているのか。
住民票を移したからかもしれないけれど、実態として都心に住んでいるならそういうことになるものなの
だろうか。本筋とは全然関係ないんだけれど、こういうところが曖昧だと信じ切れなくなってしまう性分なので。
「迷子」のタイムスリップも類例がないわけではないけれど、詳細でリアルな描写に惹き込まれる。
しかし、オチはどうにも納得出来ない。体験者は「自分自身が見捨てた自分」のことを気に病んでいるようだ。
しかし、このストーリー展開からするとそんなものは存在していない。
体験者が最初に見かけた自分は「未来の」自分であり、公園で時間の澱みに填っている内に過去の
自分を発見し、それに先んじて家に戻っている。その時背後にいたのは過去の自分だ。今は置いていって
しまったように思って、「彼」はこのあと公園に行き、そしてまた戻ってくる。つまり、ここでは体験者の
時間がループし一旦過去と未来がごく近接してしまった、というだけで何らかの分岐を経験したわけでは
ないのだ。
心配する必要など何も無い。
後半は急にしんみりとした話が多くなる。そうした話が悪い、というのでもないけれど、残念ながら
その類の話はこぞって「怖くない」。恐怖に身を震わせた合間にそうした作品で心の雪解けを図るのなら
良いけれど、ロマンス文庫じゃないんだからそっちばかりになってしまってはジャンルすら違ってしまうと
いうもの。
最後の「白」は旧家の一族に纏わる因縁譚のどろりとした粘りも研ぎたてでぎらぎらと光る鉈のように
鋭く激烈な恐怖の切れ味も素晴らしい一級品。古典落語であろうとスタンダードジャズであろうと
面白いものは面白いのだ。むしろ新ネタよりも勝率が高い位だ。ただ、話の締めに当たる部分は判り
難いし、あまり意味を感じられない。単に強く感情移入してしまった、というだけではないのか。
この作品も全く記憶にないなあ。
いずれにせよ、楽しめた、というのは良いことだ。
想像していたよりは楽しめた。
自分では全く対照していないけれど、講評のランキングとは全く違う基準で選ばれたらしい怪談は
「超−1」で接していた(と思っていた)平均レベルよりもずっと良質で正直「読むに耐える」。あの時には
また読んでみたい作品など皆無、と言ってよいほど光るものは感じなかったのだけれど。
とは言え、確認してみると今回書き下ろされた作品が特に優れている、というものでもない。
むしろ新鮮味には欠ける小品が多い。
今更比較して読み直す気など無いのだけれど、書き改められているところが多いのだろうか。それとも
こちらの目が節穴だったのか。
読んでからもう時間が経ってしまったので、個別作品に鮮明な記憶はない。一応ざっと読み返しつつ
感想をば手短に。
冒頭の「満月」がもうじわじわと嫌な話で力作だ。こんな作品、あったかしら。
「思い出してはいけない」も「超」怖らしいタイプの気味悪い作品。結構いけるじゃないの。
書き下ろしの「撮影者」。ブレアウィッチプロジェクトごっこが原作を超えた(観ていないので推測)
不条理な展開へと繋がっていく。怪異と呼べる部分に集中した技法は、長い作品を嫌う人も多いようだし
決して悪いものではないのだけれど個人的には最後にどう失踪したのか、その辺りまで知りたかった。
鏡に纏わる怪談、というのはかなりの主要派閥であることは間違いないけれど、「鏡」はそうした中に
あってかなり異彩を放っている。あまりの不条理さが心霊ものよりも恐怖を感じさせる。こうした自分好みの
作品が比較的多いことも評価を上げた一因かも。
「出席番号十一番」は事実関係が何だかしっくりこない。小学校一年時点では神崎くんの友人が住んでいた。
小学校5年の現時点では沢渡くんの家。その間に沢渡くんの親御さんがこの家を購入した。一応矛盾は
ないのだけれど、では沢渡くんはなぜその住んだこともない家の近くの学校に登録されているのか。
住民票を移したからかもしれないけれど、実態として都心に住んでいるならそういうことになるものなの
だろうか。本筋とは全然関係ないんだけれど、こういうところが曖昧だと信じ切れなくなってしまう性分なので。
「迷子」のタイムスリップも類例がないわけではないけれど、詳細でリアルな描写に惹き込まれる。
しかし、オチはどうにも納得出来ない。体験者は「自分自身が見捨てた自分」のことを気に病んでいるようだ。
しかし、このストーリー展開からするとそんなものは存在していない。
体験者が最初に見かけた自分は「未来の」自分であり、公園で時間の澱みに填っている内に過去の
自分を発見し、それに先んじて家に戻っている。その時背後にいたのは過去の自分だ。今は置いていって
しまったように思って、「彼」はこのあと公園に行き、そしてまた戻ってくる。つまり、ここでは体験者の
時間がループし一旦過去と未来がごく近接してしまった、というだけで何らかの分岐を経験したわけでは
ないのだ。
心配する必要など何も無い。
後半は急にしんみりとした話が多くなる。そうした話が悪い、というのでもないけれど、残念ながら
その類の話はこぞって「怖くない」。恐怖に身を震わせた合間にそうした作品で心の雪解けを図るのなら
良いけれど、ロマンス文庫じゃないんだからそっちばかりになってしまってはジャンルすら違ってしまうと
いうもの。
最後の「白」は旧家の一族に纏わる因縁譚のどろりとした粘りも研ぎたてでぎらぎらと光る鉈のように
鋭く激烈な恐怖の切れ味も素晴らしい一級品。古典落語であろうとスタンダードジャズであろうと
面白いものは面白いのだ。むしろ新ネタよりも勝率が高い位だ。ただ、話の締めに当たる部分は判り
難いし、あまり意味を感じられない。単に強く感情移入してしまった、というだけではないのか。
この作品も全く記憶にないなあ。
いずれにせよ、楽しめた、というのは良いことだ。
封印怪談2
何度かキャッチ&リリースしながら、怪談中毒の禁断症状に耐えられずついに購入。
全体に突っ込みの甘い怪談集である。
著者自身が経験している怪談も多く、それは自分の話だけにしっかりと書けているし、比較的楽しめる。
男性著者のため変な思い入れもない。
やたら人が死んでしまうのも意外と大人しい怪談が多い中珍しい。
ただ、冒頭にも書いたように疑問を感じてしまう作品も結構あって世界に浸りきれるには至らなかった。
「実験された少女」はこの体験者が語り手だったのだろうか。ちょっとそれは難しそうだけれど、
そうでないと話が成立しそうにない。しかもこの話は「心療内科」で解決が付いてしまう、と言えなくもない。
「あずかりもの」こいつはどう考えてもこの先が知りたい。これでは蛇の生殺しだ。確かにここまででも
不思議であり不気味でもあるけれども。「そこにいるのは」もほぼ同様で、彼女のその後(二度と連絡が
つかなくなってしまった、でもよい)を描いて欲しかった。それともこの最後の文章はそれを意味しているのか。
「うなずく子供」、ここで書かれていることが本当なら、これは人類の常識を破壊する大変な出来事である。
怯えている場合ではない。
「繋がらない公衆電話」ずっといる男、何より直接聞こえてくる声、と怪談としての構成要件は満たして
いるので、そこを疑うわけではないのだけれど、描写・展開ともに王道過ぎて新鮮味がない。何より
気になったのは、母は「公衆電話は繋がらない筈よ」と怯えている様子だけれど、男ははっきりと
「ツナガラナイ」と言っているのだから何も矛盾はない。確かに使えなくなっているのだろう。だから
怯えるポイントが間違っている。勿論題名も。
「心霊スポット」こいつも途中で子供の首が飛んだ、などとご大層なことが書かれているのでどんな
目に遭うかと「期待」していたら落ち武者の霊を見かけただけ。しかもまた行こう、と楽しんですらいる
らしい。拍子抜け作品の典型例。
「ドッペルゲンガー」の解釈も納得いかない。途中、一人は自分の家に入り自分と同じ行動をする相手を
見ている。記憶まで共有しているという。こうしたケースでは第三者、というよりは時間のずれ、異世界との
繋がりを考えた方が自然だろう。しかも三つ子の片割れだとしたら、なぜこの一時のみ急に現れたのか
理解できない。
こうした欠点は抱えているものの、大分毛色の違う怪談集なのでそれなりの面白さはあった。
全体に突っ込みの甘い怪談集である。
著者自身が経験している怪談も多く、それは自分の話だけにしっかりと書けているし、比較的楽しめる。
男性著者のため変な思い入れもない。
やたら人が死んでしまうのも意外と大人しい怪談が多い中珍しい。
ただ、冒頭にも書いたように疑問を感じてしまう作品も結構あって世界に浸りきれるには至らなかった。
「実験された少女」はこの体験者が語り手だったのだろうか。ちょっとそれは難しそうだけれど、
そうでないと話が成立しそうにない。しかもこの話は「心療内科」で解決が付いてしまう、と言えなくもない。
「あずかりもの」こいつはどう考えてもこの先が知りたい。これでは蛇の生殺しだ。確かにここまででも
不思議であり不気味でもあるけれども。「そこにいるのは」もほぼ同様で、彼女のその後(二度と連絡が
つかなくなってしまった、でもよい)を描いて欲しかった。それともこの最後の文章はそれを意味しているのか。
「うなずく子供」、ここで書かれていることが本当なら、これは人類の常識を破壊する大変な出来事である。
怯えている場合ではない。
「繋がらない公衆電話」ずっといる男、何より直接聞こえてくる声、と怪談としての構成要件は満たして
いるので、そこを疑うわけではないのだけれど、描写・展開ともに王道過ぎて新鮮味がない。何より
気になったのは、母は「公衆電話は繋がらない筈よ」と怯えている様子だけれど、男ははっきりと
「ツナガラナイ」と言っているのだから何も矛盾はない。確かに使えなくなっているのだろう。だから
怯えるポイントが間違っている。勿論題名も。
「心霊スポット」こいつも途中で子供の首が飛んだ、などとご大層なことが書かれているのでどんな
目に遭うかと「期待」していたら落ち武者の霊を見かけただけ。しかもまた行こう、と楽しんですらいる
らしい。拍子抜け作品の典型例。
「ドッペルゲンガー」の解釈も納得いかない。途中、一人は自分の家に入り自分と同じ行動をする相手を
見ている。記憶まで共有しているという。こうしたケースでは第三者、というよりは時間のずれ、異世界との
繋がりを考えた方が自然だろう。しかも三つ子の片割れだとしたら、なぜこの一時のみ急に現れたのか
理解できない。
こうした欠点は抱えているものの、大分毛色の違う怪談集なのでそれなりの面白さはあった。
怪談実話 顳かみ草紙 串刺し
もう読んでから大分経ってしまったけれど、折角なので簡単に。
毎度書いているように、どちらかと言うと恐怖譚以上に「不思議な話」好きでもあり、この本の前口上には
否が応でも期待が高まった。しかもここで簡単に紹介されている話など、期待通りの何とも不条理な
お話。流石平山氏と思いながら読み始めた。
第1話の「雛と抽斗」。実に不可解で素晴らしい。続く「泥酔」。これも通常の怪談とはかなり毛色が
異なる。むしろ異世界体験とも取れる。
「霧嫌い」はキング原作映画の「ミスト」を思わせるところもある。でも比較的通常の怪談ぽいな。
「蜃気楼」。ぎりぎりレベルの儚いものだけれど、霊は視界の端に見える、という話も時折聞くし、
これは怪談だな。
冒頭の骨折シーンがいかにも平山氏らしい強烈なもので期待させるも、それは設定の振りに
過ぎなかった。怪異自体は大人しめのノーマル怪談系。
「螢火」。視覚障害者の「視た」怪談という大変に貴重な事例ながら、内容的にはオーソドックスな
霊体験。
こうして読むにつれ、どんどんと世間一般の怪談と違いが感じられなくなってしまった。
しかも冒頭に宣言された通り、怪談と非怪談の境界を狙っている分怪異自体がどうにも小ぶりで
何だか物足りない。
「忌み数」は語ること自体タブーなのかもしれないけれど、サイコロを振ってどう「忌み数」を決めるのか
判らぬため、どうも気になってしまう。
まず、3つの事例から想像すると、4つのサイコロを振る、もしくはサイコロを4回振って決めているように
取れる。1212の並びにも意味があるようなのでやはり4回振っているのだろうか。
そして何より「1318」。これは普通のサイコロでは出せる数字ではない。サイコロが特殊なのか
あるいは単に4回振っているだけではないのか。
もしくは数字が間違っているのだろうか。はたまたこの話自体が嘘っぱちなのか。
いろいろと考えてしまって楽しめない。
「孕み」なども大作で実に気味が悪く著者らしい読み味の作品ではある。しかし、相当な障りを受けて
いながら、特に何をする、ということもなく一過性で事件は終わってしまったようだ。何だかすっきりこない。
「憑が出る」も気味悪さでは文句無し。しかし一体この怪異は何なのだろう、と思うとどうも良く判らない。
当初家の造りが妙であることが判明しそれに絡んで次第におかしくなっていく。大作の多い「家ネタ」かと
思わせる展開である。
しかし、途中祖母の話で急に違う方向へと話がずれてしまう。どうも家というより父親の家族、血の
問題であるようなのだ。
祖母はその対処法までよく知っているし、未知の怪異ではないらしい。案の定家の穴の謎は全く
解明されることもなくこれからの血族に対する戒めで話は終わってしまう。一体穴は何だったんだ。
一方、「つらい記憶」などは短いけれど後に残る作品だ。
半年も入院していたという記憶は一朝一夕に捏造されてしまうような代物ではない。夢に見た、という
レベルではないからだ。なのに、どうやらそれは自分一人しか記憶していない事実であるようだ。これなど
パラレルワールドの存在を真剣に検討したくなるような不思議な話ではないか。これこそ待っていた
一品である。
怪談作家の中でも一級の文章なので読んでいて心地良いし、最近の平山怪談はちょっと特筆すべきものが
無くなってしまっていただけに、新機軸に挑戦しようという分若干目新しく感じられたことは確か。
しかし、先に書いたように当初の期待感が強すぎただけに肩透かしを食らったような気にはさせられて
しまった。仔細に読むとそれなりに興味深い事例も多いけれど、「平山怪談」と構えて読んでしまうと
インパクトが強いとは言えず食い足りなさも感じる。
何とも微妙な印象に終わった一冊であった。
毎度書いているように、どちらかと言うと恐怖譚以上に「不思議な話」好きでもあり、この本の前口上には
否が応でも期待が高まった。しかもここで簡単に紹介されている話など、期待通りの何とも不条理な
お話。流石平山氏と思いながら読み始めた。
第1話の「雛と抽斗」。実に不可解で素晴らしい。続く「泥酔」。これも通常の怪談とはかなり毛色が
異なる。むしろ異世界体験とも取れる。
「霧嫌い」はキング原作映画の「ミスト」を思わせるところもある。でも比較的通常の怪談ぽいな。
「蜃気楼」。ぎりぎりレベルの儚いものだけれど、霊は視界の端に見える、という話も時折聞くし、
これは怪談だな。
冒頭の骨折シーンがいかにも平山氏らしい強烈なもので期待させるも、それは設定の振りに
過ぎなかった。怪異自体は大人しめのノーマル怪談系。
「螢火」。視覚障害者の「視た」怪談という大変に貴重な事例ながら、内容的にはオーソドックスな
霊体験。
こうして読むにつれ、どんどんと世間一般の怪談と違いが感じられなくなってしまった。
しかも冒頭に宣言された通り、怪談と非怪談の境界を狙っている分怪異自体がどうにも小ぶりで
何だか物足りない。
「忌み数」は語ること自体タブーなのかもしれないけれど、サイコロを振ってどう「忌み数」を決めるのか
判らぬため、どうも気になってしまう。
まず、3つの事例から想像すると、4つのサイコロを振る、もしくはサイコロを4回振って決めているように
取れる。1212の並びにも意味があるようなのでやはり4回振っているのだろうか。
そして何より「1318」。これは普通のサイコロでは出せる数字ではない。サイコロが特殊なのか
あるいは単に4回振っているだけではないのか。
もしくは数字が間違っているのだろうか。はたまたこの話自体が嘘っぱちなのか。
いろいろと考えてしまって楽しめない。
「孕み」なども大作で実に気味が悪く著者らしい読み味の作品ではある。しかし、相当な障りを受けて
いながら、特に何をする、ということもなく一過性で事件は終わってしまったようだ。何だかすっきりこない。
「憑が出る」も気味悪さでは文句無し。しかし一体この怪異は何なのだろう、と思うとどうも良く判らない。
当初家の造りが妙であることが判明しそれに絡んで次第におかしくなっていく。大作の多い「家ネタ」かと
思わせる展開である。
しかし、途中祖母の話で急に違う方向へと話がずれてしまう。どうも家というより父親の家族、血の
問題であるようなのだ。
祖母はその対処法までよく知っているし、未知の怪異ではないらしい。案の定家の穴の謎は全く
解明されることもなくこれからの血族に対する戒めで話は終わってしまう。一体穴は何だったんだ。
一方、「つらい記憶」などは短いけれど後に残る作品だ。
半年も入院していたという記憶は一朝一夕に捏造されてしまうような代物ではない。夢に見た、という
レベルではないからだ。なのに、どうやらそれは自分一人しか記憶していない事実であるようだ。これなど
パラレルワールドの存在を真剣に検討したくなるような不思議な話ではないか。これこそ待っていた
一品である。
怪談作家の中でも一級の文章なので読んでいて心地良いし、最近の平山怪談はちょっと特筆すべきものが
無くなってしまっていただけに、新機軸に挑戦しようという分若干目新しく感じられたことは確か。
しかし、先に書いたように当初の期待感が強すぎただけに肩透かしを食らったような気にはさせられて
しまった。仔細に読むとそれなりに興味深い事例も多いけれど、「平山怪談」と構えて読んでしまうと
インパクトが強いとは言えず食い足りなさも感じる。
何とも微妙な印象に終わった一冊であった。
恐怖箱 赤蜻蛉
台風が来たり忙しかったりとなかなか本屋に行けず、ようやく昨日ゲット。
どうも「怖い」というよりは「不思議」という印象が強い。
元々不思議譚は怪談中でも特に好きな部類なのでそれ自体は悪いことではない。
ただ、全体にインパクトの強い話があまりないため、どうもぼんやりとしてしまっている。
文章が整ってはいるもののいわゆる「超怖風」の王道とも言えるスタイルに徹しているため何だか
型にはまった様式を見せられてしまっているように感じられてしまうのだ。
そろそろこの語り口も潮時だろう。
平山・加藤怪談ではこの語り口を使っても、転・結のあたりでそこから良い意味で逸脱し盛り上がりを
見せてくれる。
ここではあらかじめ予想される通りに話が進み展開し、さほど意外性のないところで終着点に
到達してしまう。教科書的であってこれを読んで、心に残して、という強い訴えかけがあまり感じられ
ないのだ。これは怪異が強烈である無しとは関係のない話だ。
また、体験者があまり恐怖を感じていない作品が多いのも緊迫感を殺いでいる一因だろう。
猛者の体験談も興味深いところながら、それがいくつも登場し怪異を日常として淡々と語られてしまうと、
こちらもどうしても怖くはなくなってしまう。
勿論「平田のアパート」や「黄昏の子供」「更新」など楽しめた作品も結構あった。プロの冷静な
体験談である「南の島にて」なども興味深い。
一方、気になる点も散見される。
「道中狸」は個人的に一番気になるネタの一つ瞬間移動もの。しかし作品中では何も触れられて
いないのにこの怪異を「狸」の仕業と断定してしまったのはどういうわけだろう。しかも何故題名でのみ。
むしろその前の「岩」の方が狐狸の仕打ちらしい。
「白い車の男、黒い車の女」のようにオチを怪談とは関係ないところに持ってくるのも好きではない。
しかもこの話結構怖いネタだし、体験者のキャラクターをそんなところに落とさなくても成立する話だけに
余計腑に落ちない。
「おぶつだん」などは場面を想像すると笑えると同時にゾッとさせられる。しかし、これが子供の悪戯心に
よるものではないのか、他の子はそいつの影響で描いてしまったのではないのかという辺りの検証が
全く成されていないので素直には受け取れない。
「特別利用者」はネタ振り段階で自らハードルを上げ期待感を高めながら標準レベル以下の怪異しか
起らずかなりしおしおな気分にさせてくれたけれど(それを「まだ大人しいほうらしい」で片付けられては、
むしろそっちを聴かせろ、と憤りたくもなる)、体験者の最後の弁もよく判らない。
身長が大きいことに対して、足・胴・首とどの部分が大きかったか判らない、と語っている。
なぜ一部分だけが大きい、ということに拘るのだろう。一番自然なのは体が全体的に大きかった、と
いうことではないのだろうか。何か意味があるのかと前の部分を読み直しても何も無い。
どうにも不思議だ。
何だか「超-1」の傑作選、といった趣(実際の傑作選はここまで面白くないけれど-初年度以外)の
若干素人っぽい作品集であった。それなりには楽しめたけれど。
どうも「怖い」というよりは「不思議」という印象が強い。
元々不思議譚は怪談中でも特に好きな部類なのでそれ自体は悪いことではない。
ただ、全体にインパクトの強い話があまりないため、どうもぼんやりとしてしまっている。
文章が整ってはいるもののいわゆる「超怖風」の王道とも言えるスタイルに徹しているため何だか
型にはまった様式を見せられてしまっているように感じられてしまうのだ。
そろそろこの語り口も潮時だろう。
平山・加藤怪談ではこの語り口を使っても、転・結のあたりでそこから良い意味で逸脱し盛り上がりを
見せてくれる。
ここではあらかじめ予想される通りに話が進み展開し、さほど意外性のないところで終着点に
到達してしまう。教科書的であってこれを読んで、心に残して、という強い訴えかけがあまり感じられ
ないのだ。これは怪異が強烈である無しとは関係のない話だ。
また、体験者があまり恐怖を感じていない作品が多いのも緊迫感を殺いでいる一因だろう。
猛者の体験談も興味深いところながら、それがいくつも登場し怪異を日常として淡々と語られてしまうと、
こちらもどうしても怖くはなくなってしまう。
勿論「平田のアパート」や「黄昏の子供」「更新」など楽しめた作品も結構あった。プロの冷静な
体験談である「南の島にて」なども興味深い。
一方、気になる点も散見される。
「道中狸」は個人的に一番気になるネタの一つ瞬間移動もの。しかし作品中では何も触れられて
いないのにこの怪異を「狸」の仕業と断定してしまったのはどういうわけだろう。しかも何故題名でのみ。
むしろその前の「岩」の方が狐狸の仕打ちらしい。
「白い車の男、黒い車の女」のようにオチを怪談とは関係ないところに持ってくるのも好きではない。
しかもこの話結構怖いネタだし、体験者のキャラクターをそんなところに落とさなくても成立する話だけに
余計腑に落ちない。
「おぶつだん」などは場面を想像すると笑えると同時にゾッとさせられる。しかし、これが子供の悪戯心に
よるものではないのか、他の子はそいつの影響で描いてしまったのではないのかという辺りの検証が
全く成されていないので素直には受け取れない。
「特別利用者」はネタ振り段階で自らハードルを上げ期待感を高めながら標準レベル以下の怪異しか
起らずかなりしおしおな気分にさせてくれたけれど(それを「まだ大人しいほうらしい」で片付けられては、
むしろそっちを聴かせろ、と憤りたくもなる)、体験者の最後の弁もよく判らない。
身長が大きいことに対して、足・胴・首とどの部分が大きかったか判らない、と語っている。
なぜ一部分だけが大きい、ということに拘るのだろう。一番自然なのは体が全体的に大きかった、と
いうことではないのだろうか。何か意味があるのかと前の部分を読み直しても何も無い。
どうにも不思議だ。
何だか「超-1」の傑作選、といった趣(実際の傑作選はここまで面白くないけれど-初年度以外)の
若干素人っぽい作品集であった。それなりには楽しめたけれど。
稲川淳二の怪談ナイト 2009 東京編
8月28日夜、日本青年館ホールにて拝聴。
もう一年経ってしまったかと思うと感慨深い。5年ぶりに東京での公演参加である。
丁度この日、神宮球場ではヤクルト戦(相手は知らん)、国立競技場では嵐のコンサートが行なわれて
いた模様。
共に万単位の観衆が集まる間に挟まれ、ひっそりと暗ーい照明の下怪談が語られていたなど、双方の
お客さんたちは知る由もなかったろう。そのあまりのギャップにおかしくなってしまう。
例によって、オール新作。何だか例年よりもあっという間に終わってしまった。
まあ、福岡の能楽殿での公演だと、やたら蒸し暑かったり薄い座布団に座っているため尻が痛く
なったりと、雰囲気は最高ながら住環境的に問題も多かったので気が逸れて長く感じたのだろう。
また、内容的にもかなりストレートで捻りのない話が多かった。もう話の序盤で大体の粗筋が見えて
しまうような。
怖い話と言うよりもしんみりとした話をいくつも混ぜていたせいもあるだろう。
例年あるような大ネタもあまり見受けられなかった。
発売前に気がつかず、席がかなり後ろの方だったのも怖さを弱めた、ということがあったのだろうか。
福岡ではほぼかぶりつきに近く目の前で語ってくれていたので。
ただ、心霊写真に関しては新作を相当盛り込んでくれて目新しかった。結構怖いものもあった。
しかし、今年の怪談ナイトはこれで終わりではない。
チネチッタのオールナイト公演に、本当に久々に参加出来ることとなったのだ。
まさかの一般販売にて入手出来てしまい、一年に二回公演を聞く、ということにもなってしまったけれど、
何と言っても深夜、延々と稲川怪談を聞き倒せる、というのは最高の幸せだ。
同じ話は当然結構あるだろうけれど、それでも楽しみで仕方がない。
なので、こっちはこの程度で終わらせておこう。
思いがけずも思い出作り 鹿児島初詣 第2群
相変わらず多い「芥屋」の検索来訪。
今年はもうあの綺麗な海に行くことが出来ない、というのは福岡を去った最大の名残の一つかも。
奥さん的にはこっちでは花火大会が目白押し、しかも規模も凄いのでそれどころではないようだ。
隅田川花火大会、東京湾大華火大会共に、メインエリアとはちょっと違うところで絶好のポジションから
座って花火鑑賞。どこかをこんなところに書く気は毛頭無いけれど、文句無しだ。
霧島神宮を後にすると、更に南へ向かって邁進していく。
薩摩半島の一番突端、長崎鼻を目指すのだ。
長崎鼻に到着した時点ではまだ辺りは暗かった。初詣の混雑etc.にもっと余裕を見ていたのだろう。
そのためしばらく車内で待機となった。ちょっとだけ仮眠。
空が薄明るくなる頃近くの土産物店に人が来て開店。お茶などもらったりする。
この時点では雨がぱらついていた。しかし徐々に弱まってきて、夜明けが近付く頃にはほぼ上がっては
くれた。
そこで岬の先にある燈台に向かう。そこから更に先に向かって岩場が拡がっており、行けるところまで
直進していった。そのうち近くに歩道の痕跡を発見。もともとはコンクリートできっちりと舗装された
歩道だったようなのだけれど、歩く人がほとんどいないからなのか全く整備されておらずひび割れたり
壊れたりしている。それでもほぼ溶岩のようなごろごろした岩の連続よりはずっと歩き易い。岩場だと
いきなり海にぶつかって道を塞がれたりもするので。
しばらく行くとコンクリートのミニダムのような湾曲した壁が見えてきた。その上は歩けそうでもあるけれど
かなり朽ちてもいそうなので足元が崩れ出す危険もあり、距離的にもちょっと微妙にあったので、そこで
行軍を断念。
この場所は、まさに父親がそれ以上行くのを諦めたのと全く同じだ、と思えた。
父親は数十年前両親(こちらからすると祖父母)と長崎鼻に来たことがあり、その際岩をどんどん
進んでいったらコンクリートの岩壁のようなものが出て来、そこでそれ以上行くのを諦めたんだ、という
話を(確か何回も)聞いていたのだ。
何とも感慨深いポイントではあったけれど、無茶をするにはあまりに見返りが少ない。その先もただ
岩場があって先端に近づける、というだけの話なので。
しかもこの日は天候が良くなかったため海も荒れておりかなり強烈な波が押し寄せていた。
本来ここで初日の出を鑑賞する予定であった。
しかし雲に阻まれた。それでもみるみるうちに雲は薄くなり、雲越しではあるけれど太陽の輝きを
感じることは出来た。
また、開聞岳も最初は中腹以上まで雲に覆われていたのがどんどんと姿を現してくれた。ただこちらも
最後まで頂上だけには雲が張り付いてしまっておりクリアな姿は拝めなかった。
戻って指宿温泉のホテルで朝食と入浴。
元旦の朝風呂を温泉で迎える、というのは何とも最高の贅沢気分ではある。
そのまま鹿児島市に入り、照國神社で初詣。ここでしばらく自由解散となる。
福岡の人は「三社参り」と称し神社をはしごする風習がある。バスツアーでもそんなのがいくつも
設定されている。
関東者としては初詣に二つの神社に行くのは浮気するようなものだから良くない、と昔から聞いていたので
何だか馴染めない。とは言え、東京でも中学時代に元旦の夜中に家を出て御嶽神社と高尾山薬王院を
一人で電車にて巡る、という無茶をしたこともあったからそれ程気にしてはいなかったようだ。
照國神社は国宝の刀剣を所有はしているものの勿論それはここにはない。東京国立博物館で何回か
拝観した記憶があるので、あちらに寄託されているのだろう。
かなり真新しい宝物館的なものがあったので寄ってみたけれど、文化財クラスの展示品はなかった。
参道の脇に登録文化財の「県立博物館考古資料館」があった。しかし現在は利用されてはいないらしく
入口は封鎖されていた。
余った時間で街中を探索。
中心部にはアーケードが広がっており、行ったばかりの高知に雰囲気が似ていた。
再び集合し「仙巌園(磯庭園)」へ。
ここは庭園全体が国指定名勝。中には登録文化財の濾過池位しか文化財はないものの、周囲には
多数存在している。
庭園も思ったよりかなり広く、一回りするだけで結構時間を取られる。
ただ、既に天候は回復しており(時折急にぱらついたりはした)桜島がこれまた中腹までは見えた。
こちらも山頂まで見えたらきっと雄大な眺めだったろうに。残念だ。
この仙巌園には35年前に来たことがあり、その際奄美大島にしか生息しない貴重な鳥「ルリカケス」が
いた、という記憶があった。
案内図などにも特に記載はなく、既にいなくなっているのだろう、と思っていたら、濾過池を観察するため
園のかなり奥まったところまで行ってみたところ、案内標識に「ルリカケス」と表記されていた。
行っていると、確かにまだケージは存在しており、一羽だけながらルリカケスもいた。
ただ、冬の天気のよくないところなので奥にある巣箱の中に入ってしまっており、ほとんど見ることは
出来なかった。35年前には目の前で全身を見た記憶(というか写真)があったのだけれど。
園を出て、併設されている尚古集成館へ。
ここは建物自体が「旧集成館機械工場」であり重要文化財。さらに展示品として重要文化財「形削盤」や
県文化財の「紡績機」などが展示されている。
集成館の隣の敷地には登録文化財「磯珈琲館(旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所)」と「磯工芸館
(旧島津家吉野殖林所)」がある。工芸館の方はガラスなどの工芸品を売る店で入ることが出来る。
珈琲館の方はレストランとして活用されているようで、この日は当然お休み。その分庭などに自由に
入ることは出来た。
ちょっと離れたところに最後の重要文化財「旧鹿児島紡績所技師館」があったのだけれど、建物に
かなり傷みが出ているようで内部が公開されていない上、年末年始は敷地にも入れなくなってしまっていた。
まあ、門や敷地外から概ねは見ることが出来たのだけれど、何だか不完全燃焼だった。
こうして昼食兼用でそれなりの時間を取って貰っていたエリアながら、もうばたばた。
それでも一応一巡りは出来た。
そこから一路福岡までひた走る。それでも戻ったのはもう夜。
元旦はほぼ潰されてしまい、徹夜に近い状態なのですぐに落ちることとなった。
それなりに楽しいけれど、やっぱりちょっときついかも。
社会人になると正月休みは3日までしかないしね。今年はたまたま4日までながら。
ちなみに、そうは言いつつも2日は天神にてバーゲン初日。行かないわけには行かなかった。
やはりしんどい。
今年はもうあの綺麗な海に行くことが出来ない、というのは福岡を去った最大の名残の一つかも。
奥さん的にはこっちでは花火大会が目白押し、しかも規模も凄いのでそれどころではないようだ。
隅田川花火大会、東京湾大華火大会共に、メインエリアとはちょっと違うところで絶好のポジションから
座って花火鑑賞。どこかをこんなところに書く気は毛頭無いけれど、文句無しだ。
霧島神宮を後にすると、更に南へ向かって邁進していく。
薩摩半島の一番突端、長崎鼻を目指すのだ。
長崎鼻に到着した時点ではまだ辺りは暗かった。初詣の混雑etc.にもっと余裕を見ていたのだろう。
そのためしばらく車内で待機となった。ちょっとだけ仮眠。
空が薄明るくなる頃近くの土産物店に人が来て開店。お茶などもらったりする。
この時点では雨がぱらついていた。しかし徐々に弱まってきて、夜明けが近付く頃にはほぼ上がっては
くれた。
そこで岬の先にある燈台に向かう。そこから更に先に向かって岩場が拡がっており、行けるところまで
直進していった。そのうち近くに歩道の痕跡を発見。もともとはコンクリートできっちりと舗装された
歩道だったようなのだけれど、歩く人がほとんどいないからなのか全く整備されておらずひび割れたり
壊れたりしている。それでもほぼ溶岩のようなごろごろした岩の連続よりはずっと歩き易い。岩場だと
いきなり海にぶつかって道を塞がれたりもするので。
しばらく行くとコンクリートのミニダムのような湾曲した壁が見えてきた。その上は歩けそうでもあるけれど
かなり朽ちてもいそうなので足元が崩れ出す危険もあり、距離的にもちょっと微妙にあったので、そこで
行軍を断念。
この場所は、まさに父親がそれ以上行くのを諦めたのと全く同じだ、と思えた。
父親は数十年前両親(こちらからすると祖父母)と長崎鼻に来たことがあり、その際岩をどんどん
進んでいったらコンクリートの岩壁のようなものが出て来、そこでそれ以上行くのを諦めたんだ、という
話を(確か何回も)聞いていたのだ。
何とも感慨深いポイントではあったけれど、無茶をするにはあまりに見返りが少ない。その先もただ
岩場があって先端に近づける、というだけの話なので。
しかもこの日は天候が良くなかったため海も荒れておりかなり強烈な波が押し寄せていた。
本来ここで初日の出を鑑賞する予定であった。
しかし雲に阻まれた。それでもみるみるうちに雲は薄くなり、雲越しではあるけれど太陽の輝きを
感じることは出来た。
また、開聞岳も最初は中腹以上まで雲に覆われていたのがどんどんと姿を現してくれた。ただこちらも
最後まで頂上だけには雲が張り付いてしまっておりクリアな姿は拝めなかった。
戻って指宿温泉のホテルで朝食と入浴。
元旦の朝風呂を温泉で迎える、というのは何とも最高の贅沢気分ではある。
そのまま鹿児島市に入り、照國神社で初詣。ここでしばらく自由解散となる。
福岡の人は「三社参り」と称し神社をはしごする風習がある。バスツアーでもそんなのがいくつも
設定されている。
関東者としては初詣に二つの神社に行くのは浮気するようなものだから良くない、と昔から聞いていたので
何だか馴染めない。とは言え、東京でも中学時代に元旦の夜中に家を出て御嶽神社と高尾山薬王院を
一人で電車にて巡る、という無茶をしたこともあったからそれ程気にしてはいなかったようだ。
照國神社は国宝の刀剣を所有はしているものの勿論それはここにはない。東京国立博物館で何回か
拝観した記憶があるので、あちらに寄託されているのだろう。
かなり真新しい宝物館的なものがあったので寄ってみたけれど、文化財クラスの展示品はなかった。
参道の脇に登録文化財の「県立博物館考古資料館」があった。しかし現在は利用されてはいないらしく
入口は封鎖されていた。
余った時間で街中を探索。
中心部にはアーケードが広がっており、行ったばかりの高知に雰囲気が似ていた。
再び集合し「仙巌園(磯庭園)」へ。
ここは庭園全体が国指定名勝。中には登録文化財の濾過池位しか文化財はないものの、周囲には
多数存在している。
庭園も思ったよりかなり広く、一回りするだけで結構時間を取られる。
ただ、既に天候は回復しており(時折急にぱらついたりはした)桜島がこれまた中腹までは見えた。
こちらも山頂まで見えたらきっと雄大な眺めだったろうに。残念だ。
この仙巌園には35年前に来たことがあり、その際奄美大島にしか生息しない貴重な鳥「ルリカケス」が
いた、という記憶があった。
案内図などにも特に記載はなく、既にいなくなっているのだろう、と思っていたら、濾過池を観察するため
園のかなり奥まったところまで行ってみたところ、案内標識に「ルリカケス」と表記されていた。
行っていると、確かにまだケージは存在しており、一羽だけながらルリカケスもいた。
ただ、冬の天気のよくないところなので奥にある巣箱の中に入ってしまっており、ほとんど見ることは
出来なかった。35年前には目の前で全身を見た記憶(というか写真)があったのだけれど。
園を出て、併設されている尚古集成館へ。
ここは建物自体が「旧集成館機械工場」であり重要文化財。さらに展示品として重要文化財「形削盤」や
県文化財の「紡績機」などが展示されている。
集成館の隣の敷地には登録文化財「磯珈琲館(旧芹ヶ野島津家金山鉱業事業所)」と「磯工芸館
(旧島津家吉野殖林所)」がある。工芸館の方はガラスなどの工芸品を売る店で入ることが出来る。
珈琲館の方はレストランとして活用されているようで、この日は当然お休み。その分庭などに自由に
入ることは出来た。
ちょっと離れたところに最後の重要文化財「旧鹿児島紡績所技師館」があったのだけれど、建物に
かなり傷みが出ているようで内部が公開されていない上、年末年始は敷地にも入れなくなってしまっていた。
まあ、門や敷地外から概ねは見ることが出来たのだけれど、何だか不完全燃焼だった。
こうして昼食兼用でそれなりの時間を取って貰っていたエリアながら、もうばたばた。
それでも一応一巡りは出来た。
そこから一路福岡までひた走る。それでも戻ったのはもう夜。
元旦はほぼ潰されてしまい、徹夜に近い状態なのですぐに落ちることとなった。
それなりに楽しいけれど、やっぱりちょっときついかも。
社会人になると正月休みは3日までしかないしね。今年はたまたま4日までながら。
ちなみに、そうは言いつつも2日は天神にてバーゲン初日。行かないわけには行かなかった。
やはりしんどい。
怪談徒然草
中国(地方ではなく国の方)へ行ってきた。
海外はやはりとんでもない刺激を受けたけれど、それについてはまた改めて記すことにしよう。
但し、きちんと順序を踏んでいるといつになるかも分らんので、今の初詣ツアーの次位に。
たまたま本屋で単行本を発見し、珍しく後書きに目を通すとどうも別版のものもあるようなので書店の
PC端末を利用して検索してみたところ、文庫の方もちゃんと在庫があった。おかげで700円以上の
節約に加え、改訂版で読み易くなっている模様。
著者の加門七海の作品というのは初めて読む。しばらく男性なのか女性なのか悩む。話しぶりも
どちらとも取れるようながさ、否男らしいものだったので余計判断しかねた。
但し、読み切ってみるといかにも女性らしい内容であったと言えるだろう。これはあまり良い意味で
ではない。
感性重視、主観と断定が強い、という特徴からそう思えるのだ。
大半が著者自身の体験であり、そうした意味ではなかなか凄い一冊だ。
「震災記念堂」のように物理現象が生じ第三者と同時に体験している体験もある。
2チャンネルでも話題になっていた「後味の悪い話」も気になる。一体どこのことなんだろう。何とか
実際に見てみたいものだ。2ちゃんでもどこのことか決着はついていなかったけれど。
やはり障りがあるのである程度改変している可能性が高く、それで解読し辛いのだろう。全て創作とは
思いたくないところだ。
「九人の氏子と神主」は逆に明確に場所が特定できる。それだけにリアリティのある話だ。実際その
神社に行ったことはないので(文化財ではないため)この話の通りなのかどうか確かめてはいないけれど。
ただ、雰囲気作り、違和感の描写は巧い一方で、怪異の部分はあっさりし過ぎており勿体ない気がする。
しかし、先に評したようにどうも感情が先行してしまって、話しぶりから期待させながら内容的には
どうもなあ、という作品も多い。特に大作に。
「ある町工場の話」なども「家」に纏わるような大ネタの予感をさせながら、一家の話は過去形の
一文で終了されてしまい、工場内の検分では気味悪さは伝わってくるものの、明確な怪異と言える
程までのことは起こっていない。あくまでも彼女の感覚が危険を知らせた、というところだ。どうにも
物足りない。
「三角屋敷を巡る話」にしたって、建物自体の奇妙さ不気味さは充分に伝わってくるものの、怪異は
ほとんど夢ネタ。彼女と霊能者という「権威者」が見ている夢だからただごとではない、ということなのだろうか。
肝心の霜島ケイ氏の方に起こっているのが明確でない上にこれまた怪異と言える性質のものではない。
どうも次第に彼女の空騒ぎのように思えてむしろ醒めてしまうしかなかった。
それら以外にも、夢や気配のみに頼る話も多発し、怪異の真相を推理する際もほぼ自分の直感が
感じるまま。力のある人はそうだ、と言われれば反論のしようはないけれど、だからと言ってそのまま
頷けるものでもない。
小説家だけに描写力はあるものの、肝心の怪異については彼女の中にこれは間違いなし、という
明確な意識があるためにかなり端折られてしまう、という傾向があるようだ。
そのため期待して読み進めるとあれっと肩透かしを食らってしまう。でも話として上手く作られているので
印象には結構強く残る。
それがこの本の印象である。
海外はやはりとんでもない刺激を受けたけれど、それについてはまた改めて記すことにしよう。
但し、きちんと順序を踏んでいるといつになるかも分らんので、今の初詣ツアーの次位に。
たまたま本屋で単行本を発見し、珍しく後書きに目を通すとどうも別版のものもあるようなので書店の
PC端末を利用して検索してみたところ、文庫の方もちゃんと在庫があった。おかげで700円以上の
節約に加え、改訂版で読み易くなっている模様。
著者の加門七海の作品というのは初めて読む。しばらく男性なのか女性なのか悩む。話しぶりも
どちらとも取れるようながさ、否男らしいものだったので余計判断しかねた。
但し、読み切ってみるといかにも女性らしい内容であったと言えるだろう。これはあまり良い意味で
ではない。
感性重視、主観と断定が強い、という特徴からそう思えるのだ。
大半が著者自身の体験であり、そうした意味ではなかなか凄い一冊だ。
「震災記念堂」のように物理現象が生じ第三者と同時に体験している体験もある。
2チャンネルでも話題になっていた「後味の悪い話」も気になる。一体どこのことなんだろう。何とか
実際に見てみたいものだ。2ちゃんでもどこのことか決着はついていなかったけれど。
やはり障りがあるのである程度改変している可能性が高く、それで解読し辛いのだろう。全て創作とは
思いたくないところだ。
「九人の氏子と神主」は逆に明確に場所が特定できる。それだけにリアリティのある話だ。実際その
神社に行ったことはないので(文化財ではないため)この話の通りなのかどうか確かめてはいないけれど。
ただ、雰囲気作り、違和感の描写は巧い一方で、怪異の部分はあっさりし過ぎており勿体ない気がする。
しかし、先に評したようにどうも感情が先行してしまって、話しぶりから期待させながら内容的には
どうもなあ、という作品も多い。特に大作に。
「ある町工場の話」なども「家」に纏わるような大ネタの予感をさせながら、一家の話は過去形の
一文で終了されてしまい、工場内の検分では気味悪さは伝わってくるものの、明確な怪異と言える
程までのことは起こっていない。あくまでも彼女の感覚が危険を知らせた、というところだ。どうにも
物足りない。
「三角屋敷を巡る話」にしたって、建物自体の奇妙さ不気味さは充分に伝わってくるものの、怪異は
ほとんど夢ネタ。彼女と霊能者という「権威者」が見ている夢だからただごとではない、ということなのだろうか。
肝心の霜島ケイ氏の方に起こっているのが明確でない上にこれまた怪異と言える性質のものではない。
どうも次第に彼女の空騒ぎのように思えてむしろ醒めてしまうしかなかった。
それら以外にも、夢や気配のみに頼る話も多発し、怪異の真相を推理する際もほぼ自分の直感が
感じるまま。力のある人はそうだ、と言われれば反論のしようはないけれど、だからと言ってそのまま
頷けるものでもない。
小説家だけに描写力はあるものの、肝心の怪異については彼女の中にこれは間違いなし、という
明確な意識があるためにかなり端折られてしまう、という傾向があるようだ。
そのため期待して読み進めるとあれっと肩透かしを食らってしまう。でも話として上手く作られているので
印象には結構強く残る。
それがこの本の印象である。
百物語 第八夜
昨15日、一気に3冊の怪談系書籍が発売。
勿論全てゲットし、今日までに全て読み終えてしまった。
これで今年の怪談本も大半終わり、というところだろうか。寂しい。
まずは定番、平谷美樹の「百物語」。
何と話が集まり過ぎて100話では収まらず108話あるという。とは言え、彼のスタイルは新耳以上に
細切れ方式なので実際のところ他の本の体裁に換算すればそれ程ではない。
今回は体験者毎の括りを第一章だけ残し、それ以降は新耳のようなテーマ別の設定となった。
イメージ連想の拡がりからするとこの方が馴染みやすい感じはする。
ただ、元々彼の怪談はさほど強烈なものではなく、むしろ怪談が日常の中に浸潤してくるような
じわっとした怖さが持ち味である。
そう考えると体験者の人となりが若干なり見えてくる人による章立ての方が相応しい。
テーマで見てしまうと個々の怪異が小ぶりであることが露骨に見えてきてしまうし。
「赤ちゃんの森」は生まれる前の記憶とされる内容が詳細でイメージ豊かなのが興味深い。ただ、
語られなかった部分がどうしても気になる。無理だとは思いつつも。
「塩」で塩が固まっている、というのは面白い。どろどろに溶けている、という話なら良く聞くけれど、
固くなる、というのはあまり聞かない。
「無音の電話」で場所を選ばず、語ると必ず同じ現象が起こる、というのも不思議な話。
怪談自体にあまり問題を感じるものはない。
ただ、今回も前回に引き続き、怪談否定派に対する攻撃と言ってもよい文章が怪談の枕として数回
書かれている。
それがどうにも鬱陶しい。しかも次第に自分の中で何かがエスカレートしてしまっているのか、データを
基に説明して欲しい、とし「幻覚」を一般論として退けてしまっている。
しかし、説明仮説としての幻覚説を顧みることもなく切り捨ててしまうのは、あまりに恣意的過ぎないか。
自分に都合の良い、もしくは理解・納得出来る説明以外ではそれを説明した、とは思ってもらえなそうだ。
結局オカルトと非オカルトの論争がそのままここで展開されているようにも見える。
怪談本には馴染まない内容だ。それならそれでブログで書いていくとか別の趣旨の本でそれだけを
語って欲しい。それなら読まずに済む。
また、第十二章の「様々な怪異」は本当に様々であまりにまとまりが無く、内容的にも濃淡、と言うか
弱い話が多過ぎる。
それでも、東京でも(怪談界では一大派閥を成す)大阪でもなく、岩手という地方における怪談であるため
独自の味を持っていることは確か。
長く続けて欲しいシリーズだ。
勿論全てゲットし、今日までに全て読み終えてしまった。
これで今年の怪談本も大半終わり、というところだろうか。寂しい。
まずは定番、平谷美樹の「百物語」。
何と話が集まり過ぎて100話では収まらず108話あるという。とは言え、彼のスタイルは新耳以上に
細切れ方式なので実際のところ他の本の体裁に換算すればそれ程ではない。
今回は体験者毎の括りを第一章だけ残し、それ以降は新耳のようなテーマ別の設定となった。
イメージ連想の拡がりからするとこの方が馴染みやすい感じはする。
ただ、元々彼の怪談はさほど強烈なものではなく、むしろ怪談が日常の中に浸潤してくるような
じわっとした怖さが持ち味である。
そう考えると体験者の人となりが若干なり見えてくる人による章立ての方が相応しい。
テーマで見てしまうと個々の怪異が小ぶりであることが露骨に見えてきてしまうし。
「赤ちゃんの森」は生まれる前の記憶とされる内容が詳細でイメージ豊かなのが興味深い。ただ、
語られなかった部分がどうしても気になる。無理だとは思いつつも。
「塩」で塩が固まっている、というのは面白い。どろどろに溶けている、という話なら良く聞くけれど、
固くなる、というのはあまり聞かない。
「無音の電話」で場所を選ばず、語ると必ず同じ現象が起こる、というのも不思議な話。
怪談自体にあまり問題を感じるものはない。
ただ、今回も前回に引き続き、怪談否定派に対する攻撃と言ってもよい文章が怪談の枕として数回
書かれている。
それがどうにも鬱陶しい。しかも次第に自分の中で何かがエスカレートしてしまっているのか、データを
基に説明して欲しい、とし「幻覚」を一般論として退けてしまっている。
しかし、説明仮説としての幻覚説を顧みることもなく切り捨ててしまうのは、あまりに恣意的過ぎないか。
自分に都合の良い、もしくは理解・納得出来る説明以外ではそれを説明した、とは思ってもらえなそうだ。
結局オカルトと非オカルトの論争がそのままここで展開されているようにも見える。
怪談本には馴染まない内容だ。それならそれでブログで書いていくとか別の趣旨の本でそれだけを
語って欲しい。それなら読まずに済む。
また、第十二章の「様々な怪異」は本当に様々であまりにまとまりが無く、内容的にも濃淡、と言うか
弱い話が多過ぎる。
それでも、東京でも(怪談界では一大派閥を成す)大阪でもなく、岩手という地方における怪談であるため
独自の味を持っていることは確か。
長く続けて欲しいシリーズだ。
思いがけずも思い出作り 鹿児島初詣 第1群
この半年があまりに激動過ぎて昨年のことはあまり記憶になく、先の高知旅行が2008年最後の
旅である、ということも忘れていた。
まあ正確に言うと最後に帰ってきた旅、ということになる。
年のどん詰まり、大晦日の晩に鹿児島方面への初詣旅行に出掛けてしまったので。
福岡というところは凄いもので夜行バスで出掛けるツアーが数多く存在する。
二泊三日と言いながら往復夜行バスなどという強者まである位だ。福岡人はタフなんだろうか。
まあケチなだけ、という気もしないではない。
そうした中この初詣ツアーはいろいろと面白いところに連れていってくれるものがあり注目している。
既に2006年元旦にも出雲大社への日帰り夜行ツアーに参加した。
この時も夜の日御碕と朝の日御碕というほんの僅かな時間の違いで全く違った表情を見せてくれる、
という貴重な体験ができた。
今回は霧島神宮に詣で、長崎鼻と鹿児島市に寄っていく、というツアー。
鹿児島市以外は初めての場所だ。申し込んだ時点ではまだ転勤話も持ち上がってはいなかったので
偶然ながら九州の未踏地域を巡る残り少ないチャンスの一つとなった。
バスは確か23時頃に出発し、一路霧島神宮を目指す。
深夜とは言え、普段まだ寝てはいない時間だし、新年という興奮も手伝って全く眠くはならない。
3時頃だったかまだ夜の闇に包まれる中霧島神宮に到着。
丁度霧島温泉を通過する辺りから渋滞に巻き込まれるものの元々余裕のある時間設定なので問題なし。
神社の直前はかなりの急坂を登っていくことになる。駐車場自体がその上にあるので楽なものだ。
降りてからは社前の石段を登ると程なく社殿に至る。
篝火などである程度の照明は確保されており、流石に賑わってはいるけれど、行列が出来る程ではない。
何とも加減の良い混み具合だ。
周囲を山と森に囲まれしんと静まりかえる中、この一角だけが僅かに明るく人がさざめいている。
初詣としては文句無しだ。
ここに来たのは勿論文化財狙い。
本殿・幣殿・拝殿、登廊下、勅使殿の3棟+門主神社2、神饌所が附。
勅使殿はお参りするところなのでよく見える。華麗な唐破風が見事。楼門と廻廊(正面のみ)が一体と
なり唐破風の後ろに接続されている。他では見ない独特な様式だ。
朱塗りで彫刻も細かく施されており予想外に派手な作風であった。
門から後ろに登廊下が見える。そこには入っていけないので覗き見る形。
そして一段高いところに拝殿が見える。この日はライトアップしているのでぼんやりとは見えるけれど、
距離があるし何しろ全体には真っ暗なところなので細部はよく判らない。とにかく巨大な建物ではあった。
本殿については横の方に回ると一部は見えた。ただ、これも全貌は明らかではない。肉眼ではかろうじて
見えていてもあまりに暗く写真には写せなかった。幣殿はほとんど見えず。
神饌所も同様に遠目に見るだけ。門主神社だけは社殿前にあるので全方向から隈なく観察できた。
末社ながら蟇股や虹梁など装飾的で凝っている。
境内では太鼓の奉納なども行なっておりいろいろと楽しい。
茶店で売っていた「鉾餅」という菓子を購入。素朴ながらしみじみと美味い一品であった。
旅である、ということも忘れていた。
まあ正確に言うと最後に帰ってきた旅、ということになる。
年のどん詰まり、大晦日の晩に鹿児島方面への初詣旅行に出掛けてしまったので。
福岡というところは凄いもので夜行バスで出掛けるツアーが数多く存在する。
二泊三日と言いながら往復夜行バスなどという強者まである位だ。福岡人はタフなんだろうか。
まあケチなだけ、という気もしないではない。
そうした中この初詣ツアーはいろいろと面白いところに連れていってくれるものがあり注目している。
既に2006年元旦にも出雲大社への日帰り夜行ツアーに参加した。
この時も夜の日御碕と朝の日御碕というほんの僅かな時間の違いで全く違った表情を見せてくれる、
という貴重な体験ができた。
今回は霧島神宮に詣で、長崎鼻と鹿児島市に寄っていく、というツアー。
鹿児島市以外は初めての場所だ。申し込んだ時点ではまだ転勤話も持ち上がってはいなかったので
偶然ながら九州の未踏地域を巡る残り少ないチャンスの一つとなった。
バスは確か23時頃に出発し、一路霧島神宮を目指す。
深夜とは言え、普段まだ寝てはいない時間だし、新年という興奮も手伝って全く眠くはならない。
3時頃だったかまだ夜の闇に包まれる中霧島神宮に到着。
丁度霧島温泉を通過する辺りから渋滞に巻き込まれるものの元々余裕のある時間設定なので問題なし。
神社の直前はかなりの急坂を登っていくことになる。駐車場自体がその上にあるので楽なものだ。
降りてからは社前の石段を登ると程なく社殿に至る。
篝火などである程度の照明は確保されており、流石に賑わってはいるけれど、行列が出来る程ではない。
何とも加減の良い混み具合だ。
周囲を山と森に囲まれしんと静まりかえる中、この一角だけが僅かに明るく人がさざめいている。
初詣としては文句無しだ。
ここに来たのは勿論文化財狙い。
本殿・幣殿・拝殿、登廊下、勅使殿の3棟+門主神社2、神饌所が附。
勅使殿はお参りするところなのでよく見える。華麗な唐破風が見事。楼門と廻廊(正面のみ)が一体と
なり唐破風の後ろに接続されている。他では見ない独特な様式だ。
朱塗りで彫刻も細かく施されており予想外に派手な作風であった。
門から後ろに登廊下が見える。そこには入っていけないので覗き見る形。
そして一段高いところに拝殿が見える。この日はライトアップしているのでぼんやりとは見えるけれど、
距離があるし何しろ全体には真っ暗なところなので細部はよく判らない。とにかく巨大な建物ではあった。
本殿については横の方に回ると一部は見えた。ただ、これも全貌は明らかではない。肉眼ではかろうじて
見えていてもあまりに暗く写真には写せなかった。幣殿はほとんど見えず。
神饌所も同様に遠目に見るだけ。門主神社だけは社殿前にあるので全方向から隈なく観察できた。
末社ながら蟇股や虹梁など装飾的で凝っている。
境内では太鼓の奉納なども行なっておりいろいろと楽しい。
茶店で売っていた「鉾餅」という菓子を購入。素朴ながらしみじみと美味い一品であった。

